YOSHIROTTEN 衝動と行動が生み出すクリエイティブ
2023.04.25

グラフィックデザインからアートを往来するクリエイターの素顔

Edit&Text by Yukihisa Takei(HONEYEE.COM)
Photo by Ko Tsuchiya

実に多彩なクリエイターだ。“マルチアーティスト”という言葉はやや陳腐化してしまっているので相応しくないが、実際YOSHIROTTENが手がけるクリエイティブの領域はマルチに幅広い。グラフィックデザイナーという肩書きをベースにしながら、アートディレクション、映像ディレクション、空間デザイン、イベントプロデュースなど、視覚芸術にまつわるさまざまな領域の仕事で実績を作っている。そして先日、新国立競技場の地下駐車場で開催されたアートショー『SUN』に象徴されるように、近年はアート領域での活動も活発化している。

現在の東京のクリエイティブシーンにおいて常に話題に上がるアーティスト、YOSHIROTTENの創造の源泉と素顔、そしてその衝動から生まれる行動力にHONEYEE.COMがロングインタビューで迫る。

パンクカルチャーとグラフィックの世界に憧れて

YOSHIROTTEN

中目黒の東山にあるYOSHIROTTENのアトリエは、ひとりのクリエイターの仕事場ではなく、15人ほどのスタッフが出入りし、作業を続ける広い空間だ。ここは2015年にYOSHIROTTENが中心となって設立したYAR というクリエイティブスタジオであり、現在の膨大なワークスの多くはこのチームから生み出されている。取材時には開催されたばかりのアートショー『SUN』の作品群や、ミラーモチーフのオブジェなどが印象的に置かれており、その空間はニューヨークなどにある、海外のクリエイティブスタジオのような空気が感じられた。

「グラフィックというものに興味を持ったのは中高生の頃です。スケートをやっていて、音楽が好きでファッションも好きでしたが、レコードジャケットのデザインや洋服のグラフィック、スケートデッキのグラフィック、自分が好きなそういうものを全部できる仕事があるんだと。それがグラフィックデザイナーという仕事なんだと知った時に、目指す憧れの仕事になりましたね」

YOSHIROTTEN

当時を振り返るYOSHIROTTENが特に惹かれたのが、パンクロック周辺のクリエイティブ。セックス・ピストルズやザ・クラッシュ、ラモーンズなどに代表される1970年代、80年代のロンドンやニューヨークのパンクシーンが生み出す音楽やグラフィック、ファッションにも影響を受けたという。もちろん1983年生まれのYOSHIROTTENにとってはズバリの世代ではないため、追走した形だ。

「“昔のもの”という感覚ではなくて、僕の中では新鮮に響いていたし、彼らのファッションやパッケージのデザインにもヤラれたんですよね。当時東京では裏原カルチャーが、僕の地元にもGOODENOUGHやUNDERCOVER、HYSTERIC GLAMOURを置いている店もありました。自分はセディショナリーズとかに惹かれていたけど、中高生には高価だったので、実際に僕が買い漁っていたのは、地方のスケートブランドやもっとインディペンデントなもの、あとは古着でした」

“初仕事”は、桑田佳祐のツアーロゴ?

YOSHIROTTEN

転機は高校2年の時に訪れる。進学を考えていた東京の専門学校の体験入学の課題で提出した“架空のザ・ブルーハーツのポスター”が、選考を務めた松浦弥太郎氏の目に留まり入賞。これがイラストレータやフォトショップを初めて使った作品だったという。以降は高校でもPCに触れる機会を増やし、上京してその専門学校に入学。ここからYOSHIROTTENのホームグラウンドは東京になっていく。

専門学校で学ぶ一方で、YOSHIROTTENは音楽レーベルであるビクターのデザイン部門でインターンとして働き始めるが、いきなりそこで大きなチャンスを掴み取る。

「色校正を届けたり、資料を集める仕事でしたけど、ある日会社の偉い立場の方が来ていた時に、普段から持っていた自分の作品ポートフォリオをとその人に見せたんです。するといきなり『いいじゃん。このタッチで“けいちゃん”って描いてみてよ』と言われて描いたら、それが桑田佳祐さんのソロツアーのロゴに採用されて驚きました」

インターンの学生がいきなり超メジャー級アーティストのツアーロゴを手掛けるというスーパーヒット。確かにYOSHIROTTENのセンスと行動力が呼び込んだものだが、こんな話は聞いたことがない。そしてYOSHIROTTEN はレーベルの中でもデザインワークをすることになるが、ほどなくしてその行動力が再び運命を変える扉を開く。

「レーベルで外注した原宿のデザイナーさんのところに色校正を届けに行った時、ドアを開けたら、鋲ジャンにギブソンのフライングVを持った人が『ウィッス!』って出てきて、衝撃を受けたんですよ(笑)。事務所の中はカッコいい洋書だらけ、フィギュアやレコードも沢山あって、自分は東京のこういうところで働きたかったんだと。瞬発的に『ここで働きたいです!』とお願いしていました」

その人物こそYOSHIROTTENの師と言える存在となるアートディレクターの土井宏明氏で、その後YOSHIROTTENは土井氏の事務所・ポジトロンで5年間本格的にグラフィックデザインを学ぶことになる。

“何者でもなかった”頃にも夢中だった、遊びと創ること

YOSHIROTTEN

YOSHIROTTENは豊富な東京ストリートの人脈を持つことで知られている。そしてその多くは19歳の頃からの東京、特にナイトシーンでの活動によって築かれて、現在も続いているものだという。

「毎日のようにイベントやクラブに遊びに行っていて、20歳くらいから自分たちでイベントもやり始めたんです。24、5歳の頃からは自分たちで『LINDA』というDIYパーティのイベントも始めて、そこで一緒にやった人や遊びに来てくれた人たちが今はミュージシャンやプロデューサー、スタイリストなどになっているし、今も一緒に仕事をする人が多いです。同世代から少し上の世代の人までが集まっていたんです」

YOSHIROTTENというアーティストネームが生まれたのもこの頃。イベントの延長でYATTという音楽ユニットを結成し、活動を開始。敬愛するジョニー・ロットンから発想し、「名前がヨシロウだからYOSHIROTTEN、相方はチャカ・カーンから取ってTAKAKAHNという冗談みたいな発想」で名付けたネーミングが現在もそのまま浸透しているだけだと笑う。ちなみにユニット名のYATTも「やっぱり明日も楽しい方が楽しい」の頭文字というチカラの抜け具合だ。そして24歳の頃には、5年間働いたデザイン事務所から独立し、グラフィックデザイナーのYOSHIROTTENとして活動を開始する。

YOSHIROTTEN

「働きながら週末はイベントをやったり、友達のTシャツ作ったり、フライヤーを作ったりしていたのですが、その合間もずっと毎日のように自分の作品制作もしていたんです。自分の仕事も少しずつ大きくなり始めていたし、月に20万円くらいあればなんとか暮らせるだろうと思って、千駄ヶ谷で家賃10万円の事務所を3人で借りてスタートしました。そのうちのメンバーの一人とは、今も一緒に仕事をしています」

事務所はその後、外苑前に移転。CYDERHOUSEやPHINGARINなどのインディペンデントなブランド、クリエイティブマネージメントや大御所スタイリストの事務所も同居する混沌とした雑居マンションで仲間を増やし、現在の中目黒の事務所でさらに拡大を続けている。

「雑居ビルが好きなんですよ。自分が中学生の頃に最初に買い物に行ったのが、雑居ビルの古着屋とかスケートショップが並んでいたボロボロのビル。秘密基地ほど宝物が眠っているあのワクワク感みたいなものが、やっぱり都市の楽しさだと思うんです。今は東京も再開発で雑居ビルがどんどんなくなっていますけど、それって本来の目的と逆行しているように感じるんですよね。そういう場所ほど海外の人も大好きなので、東京も“雑居ビル特区”とか作ればいいのにと思いますよ」

色彩感覚の源泉

YOSHIROTTEN

YOSHIROTTENの仕事は多彩だ。アルバムジャケットのグラフィックやミュージックビデオ、G-SHOCKやevianなどプロダクトのグラフィック広告、MODE TOKYO、HYPEFESTなどイベントのメインビジュアル、DRIES VAN NOTENやBAO BAO ISSEY MIYAKEなどのファッションブランドへのアートワーク提供など、グラフィックワークでも多岐に及ぶ。

そしてクラブ 翠月MITSUKIやミュージックバーの BLOODY ANGLE など、海外からもそこを目指して駆けつけるようなエッジな店舗の空間デザイン、そしてRADIO HERMESを皮切りにHERMESのイベント空間やグラフィックを手掛けるなど、枠にとらわれない中で数々の印象的なクリエイティブを生み出している。

それらの作品の多くは、ツヤのある光や多彩な色合いが印象的で、さまざまな方向に分岐しながらも、どれもなぜか「YOSHIROTTENらしい」と感じられるから不思議だ。そして世の中の傾向として、単色やモノクロームなグラフィックやクリエイティブが多い中、色彩豊富なYOSHIROTTENの作風は少し異なる輝きを放っているように感じる。

YOSHIROTTEN

「確かに自分の作るものに色は多いかもしれません。おそらく中高生の頃にパンクカルチャーのグラフィックから受けた色の衝撃とか、サイケデリックなジャケット、あとは自然の朝日や夕陽の美しさなども入り混じっていると思いますが、色そのものの印象というより、バーン!と色全体が身体に入ってくるような衝撃が忘れられないというか、それが作品にも出ているんだと思います」

そのYOSHIROTTENの色彩感覚がクリエイティブとなって表出したのが、今年2023年4月に新国立競技場地下駐車場で3日間にわたって開催されたアートショーの『SUN』だ。これは同じ構図の円を太陽に見立て、365種類、異なる色彩で彩られた作品群。コロナ禍の際にYOSHIROTTENが毎日1枚ずつクリエイトしたこのデジタルアートが、インスタレーション、アルミニウム・プリント、バイナルレコード、書籍、さらに365日グラフィックパターンが変わるNFTアートとしても出品され話題を呼んだ。

YOSHIROTTEN

「コロナ前に手掛けていた仕事がいくつも止まってしまったり、世に出せなくなってしまったのですが、中でも一番ショックだったのが、あるブランドのポップアップスペースの空間デザインでした。世に出せないものを作る仕事って何だろうと。立ち返って考えてみると、自分はこれまで何かを作ることでいろんな人に出会えたり、また新たなものを作って来れた。だったらとにかく何かを作り続けることが自分の幸せなんだと思ったんです。『SUN』のシリーズを作ることは、自分のメディテーションだったと思います。答えのない中で手を動かして、感覚的に毎日やり続けたものを、ああいう形で発表できたのは嬉しかったです」

YOSHIROTTEN

『SUN』は3日間の開催で5000人が会場に訪れる盛況となった。この成功は単にYOSHIROTTENの人気だけでなく、日本においてアートへの感度が上がってきていることも証明しているが、YOSHIROTTENも近いことを感じていた。

「EASTEAST_TOKYO 2023というアートフェアに参加した時に、ストリートからコンセプチュアルアートまでたくさんの種類の作品が同じ空間にあって、幅広い年齢層の人たちでフェスティバルのようなすごい熱気で。『SUN』に関しても、僕のことを知っている人も、そうじゃない人も来てくれたのが嬉しかったです。ピュアに作品に接して楽しんでくれている感じを受けました」

衝動が新しいクリエイティブを生み出す

YOSHIROTTEN

2018年の大規模な個展『FUTURE NATURE』から約5年ぶりとなるアーティストとしての活動。その間も膨大なデザインワークを手掛けつつ、アーティストとしての活動にも磨きをかけている。クライアントワークとアート活動、そこに横たわる違いについてもYOSHIROTTENは明確に答える。

「前回の個展も今回の『SUN』も、計算的なものは何もなくて、完全に“衝動”なんです。やりたい、作りたい、それだけ。はっきりと分かっているのは、デザインの仕事は“答えを出すこと”。依頼をしてきた内容に対して、100%から200%で答えることが絶対なんです。一方で作品作りは、“出し続けること”が大事じゃないかと考えています。終わりがあるわけじゃないものなので」

YOSHIROTTEN

また、YOSHIROTTENのメインフィールドであるグラフィックの解釈にも、時代による進化を感じることが多いという。

「僕がデザインとアートを両方やっているから特に思うんですけど、10年前くらいから“グラフィック”という言葉をみんながちゃんと理解して使うようになったと思います。20年前くらいに始めた当初は、『なんかコンピュータで作っている人』だったので(笑)。いま、僕にデザインとアート、どちらからもオファーがあるというのは、そういう風に時代が変わったからなんだと思います」

YOSHIROTTEN

最後にデザインワーク、アート活動ともに快進撃を続けるYOSHIROTTENに、なぜ高いクリエイティブ意識を保ち続けられるのかを聞いた。

「それは自分が“何者でもなかった”からだと思います。もちろん自分ではいい場所にいたと思っていますけど、芸術大学に行って綺麗なレールが敷かれていたわけでもない、有名な会社で働いていたわけでもない。だったら自分が作るものでしかそこに持っていけないじゃないですか。デザインをしていると先駆者の人が必ずいるんです。僕は日本の1960、70年代に活躍したアートディレクターの仕事も大好きだし、シルクスクリーンの世界でも、もっとアナログな世界で格好いいものを作っていた人に行き当たります。その人たちのスタイルがどんなに格好良くて好きでも、そうじゃない新しいことをやらないと。あの人たちが『マジか!』って思えることをやれているかどうかを常に考えるし、それをやり続けたいんですよ」

Profile
YOSHIROTTEN 

1983年生まれ。グラフィックデザイナーとしてキャリアをスタート。ラグジュアリーブランドや国内外のミュージシャン、東京のアンダーグラウンドクラブから現代美術フェアまで幅広いクライアントを持つアートディレクターとして活躍。代表を務めるデザイン・スタジオ「YAR」では、広告・イベント・ロゴタイプ・内装 / 外装デザイン、ウェブ・映像など、商業に於いて、視覚芸術が関わるほぼ全ての範囲で、膨大な量の仕事を手掛けている。アーティストとしては2018年に大規模な展覧会「FUTURE NATURE」を開催し、2023年3月に新国立競技場の地下駐車場において銀色の太陽を描いた365枚のデジタル・イメージを軸にインスタレーション、アルミニウム・プリント、NFT、バイナル・レコード、書籍など様々な媒体で発表する「SUN」を開催した。
https://yoshirotten.com
https://yar.tokyo
https://www.instagram.com/yoshirotten

[編集後記]
ずっと存在は知っていたし、近いところにいたはずだが、YOSHIROTTENとは面識を持つことができないでいた。今回の取材で初めてじっくりと話を聞いて、そのクリエイティブワークのオファーが引も切らない理由の一端が分かった気がする。それはおそらくカルチャーやファッションをYOSHIROTTEN自らが体験し、理解しているからこそ生み出せるリアリティだ。そしてもうひとつ感じたのは、クリエイトをすることに対するピュアな姿勢が、グラフィックデザイナーの枠を超えてアートにまで広がっているというシンプルな事実だった。(武井)