80年代ニューヨークのアートシーン、 バスキア、キース・ヘリングとの交流も語る
Edit&Text by Yukihisa Takei(HONEYEE.COM)
Portrait Photos by Keiichi Nitta(ota office)
写真素材提供 NUNZUKA UNDERGROUND
1970年代後半から、アンディ・ウォーホルやジャン=ミシェル・バスキア、キース・ヘリングといったアーティストと活動を共にした伝説的存在のアーティスト、ケニー・シャーフ(Kenny Scharf)。カラフルな色彩と独自のキャラクターで、ストリートアートやポップアートが開花した時代の寵児のひとりとなった人物だ。
そのケニー・シャーフによる個展「I’m Baaack」が、2023年6月10日(土)よりアートギャラリーのNANZUKA UNDERGROUNDで始まった。その個展タイトルにも集約されている通り、日本での個展開催は実に32年振り、本人の来日は35年振りとなる。コロナウイルスも落ち着いたこのタイミングで、新作を多数携えての凱旋となった。
今回HONEYEE.COMでは、来日したケニー・シャーフ本人にインタビュー。35年という時間は、この伝説のアーティストにとってどんなものだったのだろうか。
1980年代のニューヨーク、そして東京
― 32年振りの日本での個展開催となり、ケニーさん自身も35年振りの来日です。久しぶりに日本に来て、何か変化は感じましたか?
ケニー・シャーフ : 大きく印象は変わっていないかな。当時から東京にはたくさんの人がいたし、ビルもいっぱいあった。変化という意味では、それは世界中どこでもあることだし、特にiPhoneやインターネットの普及で全ては大きく変わったと思う。でも、街並みで言えば、前回来た時に覚えている東京とすごく似ていると感じたね。
― NANZUKA UNDERGROUNDは、長年あなたの個展開催を熱望していて、ようやく実現に至ったと聞いています。
ケニー・シャーフ : このエキシビションをやるために日本に戻って来れたことは本当に光栄だよ。最初にNANZUKAから連絡をもらった時、即答で「YES」だった。38年も日本で個展をやっていなかったのは、もちろんイヤだったわけではなく、機会がなかっただけだからね。
― 今回は別会場の草月会館で35年前にあなたがキャデラックにペインティングをしたクルマも展示されています。その当時、どのような経緯でキャデラックにペイントすることになったのでしょうか。
ケニー・シャーフ : あれはすごく楽しい時間だった。35年前、草月会館で「ART & ACTION」と題した展示をした時は、他のアーティストも一緒の展示だった。クルマにペイントする手法は、僕自身その前からニューヨークでもやっていたけど、日本に来た時に草月会館の勅使河原宏さんが、「僕もキャデラックを持っているから、それにペイントして欲しい」と言ってくれて実現した。「夢の車」と名付けて長年保管してくれていたんだよ。
写真提供 NANZUKA
― 1980年代に時計の針を戻します。80年代はケニーさんが活躍を始めた時期ですが、その頃のアートを取り巻く状況やニューヨークについて、少し昔話を聞かせてもらえませんか。
ケニー・シャーフ : 話は1970年代後半まで遡るけど、当時ニューヨークは間違いなく“世界の中心”だった。僕はLAに住んでいて、アーティストとして夢を追い求めるのだったらニューヨークに行くしか手段はなかったんだ。だけど当時のニューヨークはなかなか危険で、決してみんなが住みたいような場所ではなかった。当時僕が住んでいた家賃は月300ドル。当時は50ドルで住んでいる人もいたよ(笑)。アート制作の傍ら、僕はナイトクラブで働いていて、そこの一晩のギャランティで1週間暮らすことができたので、週1日だけ働いて、残りはアート制作に費やすことができたんだ。
― アート活動にとってはかなり良い環境ですね。
ケニー・シャーフ : 当時はそうやって暮らす同じ志を持ったアーティストやクリエイターが周りにたくさんいた。他のアーティストたちとの競争はもちろんあったけど、とても健全な共闘だったので、お互いに学んだり、刺激を受けることができたのが当時のニューヨークだった。
― 1980年代のアメリカは非常にエキサイティングだったと想像します。現在との違いはありますか?
ケニー・シャーフ : ニューヨークはいつまで経ってもニューヨークだとは思う。もちろん僕も好きだし、エキサイティングな都市だと思うけど、アーティストとしているべき今いるべき都市かというと、どうだろうね。インターネットの登場によって、どこに居てもアート作品を見せることもできるようになったし、あと家賃もすごく高い。今の若いアーティストが20人で部屋をシェアしながら、狭い環境で制作をするのが良いのかは、正直微妙かもしれない。今でも良いギャラリーはたくさんあるので、そういう環境に囲まれていることは重要かもしれないけれど。
― あなたは現在カリフォルニアを拠点にしているとうかがっています。作品のイメージからするとニューヨークがベースのように感じてしまうのですが、カリフォルニアを拠点にする理由はなぜでしょうか。
ケニー・シャーフ : 作品のイメージがニューヨークっぽいというのは、やはり自分が19歳の若い頃にカリフォルニアからニューヨークに移り住んだからだと思う。スプレーペイントの表現などにおける技術的なところはニューヨークのストリートアートから学んだものだし、それは今も自分の中にある。でも当時から自分のことをニューヨーカーだなんて思ったことはないし、自分自身はすごくカリフォルニアンだと思っているよ。
バスキアとキース・ヘリングを引き合わせた?
写真提供 NANZUKA
― キース・ヘリング、バスキアと交流が深かったとお聞きしています。どのように出会ったのでしょうか。
ケニー・シャーフ : スクール・オブ・ビジュアルアーツに入るためにニューヨークに行ったんだけど、カリフォルニアからニューヨークに到着してわずか1週間で、キース・ヘリングとバスキアに出会ったんだ。
― そんなに早く出会いが。
ケニー・シャーフ : 学校に行き始めた最初の3日間くらいは、僕の地元のLAや、ニューヨーク郊外から来ているような普通の学生ばかりだった。すごくニューヨークに憧れを持っていたので、正直な話、失望したんだ。ところがカフェテリアに行くと、そこにバスキアがいた。彼は授業にも出ていなくて、いつもカフェテリアで遊んでいたんだ。こちらをじっと見て近づいてきて、「お前のポートフォリオを見せろ」と言うんだ。作品を見せたら、「お前はすぐに有名になるよ」と言われた。
― すごい出会いですね。
ケニー・シャーフ : そこから仲良くなって連むようになった。当時はまだグラフィティのカルチャーには精通していなかったけど、一緒にグラフィティもやるようになった。その直後にキース・ヘリングに会うことになるんだが、彼とも話すうちに仲良くなって、僕がキース・ヘリングとバスキアを引き合わせたんだ。
Kenny Scharf, Andy Warhol, and Keith Haring at Elizabeth Saltzman's Birthday party at Il Cantinori. June 16, 1986 Patrick McMullan
左 ケニー・シャーフ、中央 アンディ・ウォーホル、右 キース・ヘリング (写真提供 NANZUKA)
彼らは不在だけど、不在ではない
― ケニーさんが引き合わせたんですね。3人はどのように交流していたのですか?
ケニー・シャーフ : みんなそれぞれスタイルは違ったけど、アートに対する哲学は共有していたね。当時人気だったギャラリーに並んでいる作品は、その多くがミニマルなイメージのものだった。でも僕ら3人は、もっとリアルに街で起こっていること、そしてアートに興味のない人でも巻き込めるようなアートが好きだった。そういう感性を共有できたし、逆に嫌いなものも共通していたんだ。
― 「嫌いなもの」とは?
ケニー・シャーフ : 何か知識がないと楽しめないようなアートが好きじゃなかった。この絵のモチーフが何で、何々だからすごい、みたいなね。僕らはそういう予備知識がなくても、直感的にいいなと思うものが好きだった。ギャラリーにはもちろん入りたかったけど、当時のギャラリーは僕らを入れてくれなかった。ウェイティングリストみたいなものはあったけど、そんなの待ちきれないってことで、自分たちでイースト・ヴィレッジでアートショーをやったんだよ。
― 彼らがこの世から去ったのはかなり以前のことです。その時の喪失や、現在の不在について聞かせていただけますか。
ケニー・シャーフ : 彼らは不在だけど、不在ではないと思う。今でも誰しもが彼らの作品を観るし、影響はいまだに残っている。確かに彼らの肉体は存在しないし、新しい作品が出て来ることもないけど、その存在感はいまだに大きい。それがアートの素晴らしいところさ。彼らが亡くなっても、彼らの存在感やエナジーはいまだにはっきり感じられる。自分としても、彼らと共有したアートの哲学はいまだに僕の中で火を灯しているんだ。
常に問題は存在する。でも誰もが人生を楽しむべきだ
― ケニーさんははどのような部分から創作のインスピレーションを得るのでしょうか。
ケニー・シャーフ : 基本的に自然をインスピレーション源にはしているけど、アートは自分の仕事であるし、自分自身でもある。僕の場合、朝起きて、次の作品はどうしようかなとか、何を描こうかなと迷うことはほとんどない。逆に考えなければ、考えないほど、いい作品が描けるんだ。他のアーティストの場合はアイデアに行き詰まったりするかもしれないけど、自分には一切それがないんだよ。
― まさにアートが天職ですね。今回の作品では日本語を取り入れた作品もあります。どのような想いで制作されたのでしょうか。
ケニー・シャーフ : ここに書かれている文字は、ほとんどが日本の新聞から取ったものだ。Googleでかざすと翻訳が出てくる便利なものがあるので、もちろん意味は把握して使っている。作品に載せている日本語は地球温暖化とかプラスチック問題、大気汚染についてが多いと思う。これは僕が子供の頃の1960年代から言われてきたことだけど、その予想通りというか、現在でも悪化している。
― そうですね。
ケニー・シャーフ : こちらの作品も日本語を使っているけど、消費文化をコンセプトにしているものだ。文字要素として、見た目的に楽しく、ポップにしている。今回東京に来ても、街のあちこちに文字が書いてあるのを見た。何て書いてあるかは分からないけど、ビジュアル的に好きなんだ。
― 環境などの問題に関する文字が多い反面、作品自体はポップですね。
ケニー・シャーフ : 背景に深刻な問題の記事を載せていて、その上にキャラクターが踊ったり楽しんでいる様子にしているのは、今現在もそういう深刻な問題は世界中で毎日起こっているし、酷いことも毎日起こっている。僕はそういう状況を毎日見ているし、そのことも考えているけど、その一方で自分も個人としては楽しいことをして暮らしている。気になる問題は毎日あるけど、それを直接人に叩きつけるようなスタイルは自分の表現方法ではない。そういう問題は常に存在する。だけど誰もが人生を楽しむべきだ。生きる上ではそういうレイヤーがあるのは普通のことで、深刻な問題と楽しいことが共存していることを描いているんだ。
― ケニーさんの作品の一部は、ファッションのコラボレーションとの中にも見ることができます。Dior(2021AW)、日本のユニクロなどです。これらの動きはあなたにとってどのようなものでしたか?
ケニー・シャーフ : もちろんギャラリーに絵が飾ってあるのは好きだよ。ただギャラリーだと買える人は圧倒的に限られる。だけどファッションの文脈に入ると、たくさんの人に届けられる。自分に制限をかけたくない。ギャラリーから飛び出して、多くの人に届けられるもの、つまりArt for Everyoneなので、こういう取り組みは自分にとって大切なんだ。今も誰でも見られるミューラル(壁画)は無料で制作しているし、ありとあらゆる媒体を表現の手段として使っていきたいと思っている。
― 最後になりますが、ケニーさんが作品を作る上で一番大切にしていることは何でしょう?
ケニー・シャーフ : うーん。(しばし沈黙) 頭には出てきているんだけど、それを言葉にすると何だろうな……。うん、それは“FREEDOM”が一番近いかもしれない。アーティストというのは何でもできる存在なんだ。誰かに言われてやるものでもない、それがアーティストの素晴らしいところだからね。
ケニー・シャーフ | Kenny Scharf
1958年、カリフォルニア生まれ。ニューヨークに移住し、1980 年に NY の School of Visual Arts を卒業。アンディ・ウォーホルをメンターとして、グラフィティやコラージュを主要な表現スタイルとする「イースト・ヴィレッジ・アート・ムーブメント」の一員として、バスキアやキース・ヘリングといった同世代のアーティストと共に一躍脚光を浴びる。近年の展覧会に、個展「Moodz」 (Jeffrey Deitch, CA,アメリカ, 2020)、 「Super Pop Universe」(Lotte Museum of Art,ソウル, 韓国, 2018)、「Fast Forward _Painting from the 1980’s」(Whitney Museum of American Art, NY, アメリカ, 2017)、「Hammer Projects」 (Lobby Mural Hammer Museum, CA, アメリカ, 2017) など多数。
https://kennyscharf.com
https://www.instagram.com/kennyscharf/
https://nanzuka.com
[編集後記]
その作風や過去のご本人の写真を見るに、なかなか強烈なアーティストへのインタビューになりそうな気がしていたのだが、その予想に反し、NANZUKA UNDERGROUNDで取材に応じてくれたケニー・シャーフさんはとても穏やかで知性的だった。ウォーホール、バスキア、キース・ヘリングなどの伝説的な存在と80年代を生き、現在も活動を続けるリビング・レジェンド。その人物は今も創作への意欲を失わず、ポップな作品の中に社会へのシニカルな視線を忍び込ませ続けている。(武井)