三原康裕のDNA、古着と雑踏酒場から生まれるファッション
Edit&Text by Yukihisa Takei(HONEYEE.COM)
Interview Portraits by Atsutomo Hino
デザイナーの神谷康司が手がけるKAMIYA(カミヤ)は、Maison MIHARA YASUHIROを運営するSOSUにおいてMYne(マイン)という名称で長年ブランドを継続してきたが、2019年SSシーズンからデザイナーである神谷の名を冠したブランドに生まれ変わった。
それはMaison MIHARA YASUHIROのサブブランド的な位置付けであったことへの決別とも言える船出であり、実際KAMIYAと名称変更をされてからの躍進はファッション関係者の多くが知るところだ。
KAMIYAは2024SSシーズンに初めて新国立競技場において大規模なランウェイショーを開催し、今年3月11日(月)には、Rakuten Fashion Week Tokyoの中で2024AWのショーを開催することになっている。会場に選んだのは、渋谷の呑み屋が密集する道玄坂上の「百軒店(ひゃっけんだな)」。
屋外、そして猥雑な雰囲気も漂うエリアでのショー開催は異例とも言えるが、それもデザイナーの神谷が強く望んだことだという。
今回はショーを目前に控えた神谷を直撃。ここに至るまでの経緯、そして三原康裕との奇妙な師弟関係、ショーにかける想いまでを聞いた。
人生を変えた古着コミュニティとの出会い
― どのようなファッションの原体験だったのでしょうか。
神谷 : 以前から服は漠然と好きだったのですが、大きかったのは高校の時に東京の古着屋に行った時ですね。モノというよりも、こんな凄い人たちいるんだ!という衝撃を受けて、一気にファッションにのめり込んだ感じです。愛知の高校を卒業して大阪の大学に行ったのですが、入学式終わってすぐにアメ村の古着屋に行き、そこから連日通うようになりました。
― 大阪・アメ村の周辺は古着の聖地だし、個性的なスタイルの人もかなり多いですよね。
神谷 : そうですね。学校では友達もいなかったので、いつもアメ村に通って古着屋のスタッフやオーナーの人と服や他愛のない話をさせてもらって、どんどんコミュニティの中に入っていきました。自分も古着屋でバイトするようになったらもっと楽しくなって、だんだん大学行くのも嫌になって、2年で退学しちゃいました。古着屋のバイトだけじゃ食えないので、「裏なんば」と呼ばれるエリアの立ち呑み屋でもバイトして、稼いだお金で服を買って、という生活でしたね。
― ひとくちに古着と言ってもヴィンテージやデザイナーズなど広いですが、神谷さんはどの系統だったのですか?
神谷 : 最初はデザイナーズ系でした。COMME des GARÇONSやYohji Yamamoto、そのうちRAF SIMONSとかも買うようになって。でも一番自分に衝撃を与えたのは、現在も大阪でAKOという古着屋をされているオカダさんという方なんです。デザイナーズとアメカジをミックスしたその人の着こなしや品揃えがとにかく格好よくて、それが自分の作るものにも相当影響を与えていると思います。現在も交流させていただいていますが、いまだに衝撃を受け続けています。
― 古着屋で働いていた当時、デザイナーの道というのは考えていたのですか?
神谷 : いや、正直まったく考えていませんでした。僕はもう服と、そこにいる人たちとの交流で本当に満たされていて。いつかは自分も古着とセレクトをミックスしたお店をやりたい、一緒にシーンを盛り上げる一員になりたい、くらいは考えていましたけど、あくまで漠然としたもので。
― そこからMaison MIHARA YASUHIROを運営するSOSUに入社して、MYneで働き始めたのは、どういう経緯だったのですか?
神谷 : 大阪で古着と酒場の掛け持ちフリーター生活をしている中で、「そろそろちゃんと自分の軸を持ちたい」とは思っていたんです。そのMYneが大阪に初の直営店を出すので、店長候補を探しているという話が先輩経由で回って来て。ただ、Maison MIHARA YASUHIROの服は古着屋でもよく見ていたけど、MYneというブランドは全く知らず。でも、いずれ洋服屋やるにしても、作り手であるブランドのことも知っておいた方がいいかなと思って飛び込みました。それが2017年だったと思います。
デザインキャリア・ゼロからデザイナーに
― しかし2018年にMYneの前任デザイナーが退任されて、いきなり2018AWから神谷さんがデザイナーになりましたよね。それはどういう流れだったのですか。
神谷 : 大阪のあと、東京店の店長になって割と間も無く、前任デザイナーの方が辞めるという話になりました。僕も「それなら自分の店をやる方向をもっと真剣に考えないとな......」と思っていたんです。そんなある日に、大阪時代に少しだけしか話したことのない三原(康裕)さんが休みの日にお店に来て、「神谷くん、ちょっと裏においで」と。何か怒られるのかなと思っていたら、「これからMYneのデザインやってくれない?」と急に言われたんです。
― でも、それまで神谷さんは、デザイン業務はしてきていないですよね?
神谷 : 全くしていないです。あくまで店員だったので。三原さんからのそのお誘いにもビビってしまって、「1週間だけ時間をください」と伝えて、東京で知り合った色んなファッション関係の人たちと毎晩飲んで相談したんです。でもやっぱり「そんなチャンス絶対ない。絶対やった方がいい」と満場一致という結果で(笑)、お引き受けさせてもらうことにしたんです。
― それにしても三原さんはよくオファーしましたよね。大抜擢というか。起用する理由は何か言ってましたか?
神谷 : いや、それが特に(笑)。KAMIYAになって最初のショーの後に、『WWD』編集長の村上要さんが三原さんにインタビューしていて、「どうして神谷さんに委ねたのか」を尋ねていたんですね。それに対して、三原さんが「あの子は服が大好きなんだよ」と言ってくれたのが唯一というか、すべてです。
― 引き受けることになった時は、それまでのMYneから変えていこうという気持ちもあったのですか。
神谷 : いや、当時は自分も接客をしていて、お客さんの顔も分かっていたので、極端には変えられないと思っていたし、変え方も分かりませんでした。「MYneはこういうものだろうな」と、やりながら勉強してを繰り返すので精一杯というか。
― でも、途中のデザインなどは三原さんに確認するプロセスもあったんですよね。
神谷 : いや、なかったんです。
― ない?(笑)。本当に任せてくれたんですね。
神谷 : 今から考えても不思議なくらい、自由に好きなようにやらせてもらったんですよね。
MYneからKAMIYAへ
― KAMIYAに名称変更したのは、どんな経緯だったのですか?
神谷 : 2019年から5年ほどデザインをやらせてもらっている間は、結構苦しかったんです。もちろん勉強させてもらっていたのですが、MYneの最初のコンセプトの“スポーツミックス”な部分が自分の中にないものなので、葛藤もあって。そんな時期に三原さんが「神谷くん、もっと自分の好きなもの作りなよ」と言ってくれて。それで2023SSは振り切って自分の好きなものを作ったら、明らかに周囲の反応が良い方に変わって。「これでいいんだ」と、一気にマインドも変わったんです。そしてその次のシーズンの準備をしていたら、三原さんから「そろそろ名前変えちゃおうよ」と。「え!?」みたいな(笑)。
― 改名も三原さんからの提案だったのですね。
神谷 : でも確かに僕も名前を変えないと、これ以上自分の殻を破れないという気持ちもあったんです。「名前変えた方が覚悟も決まるし、お前の仲間がもっと応援してくれるよ」と三原さんも言ってくれて、それによってもっと振り切れたというか。実際にそれは反応や数字にも表れてくれました。
― 2024SSシーズンは、新国立競技場でビリー・プレストン(※)の「Nothing From Nothing」をテーマにランウェイを発表しました。あの時、サウンドシステムを積んだトラックが壁を突き破って出てくるという演出をされていたのが印象的でしたが、どのような想いがあったのでしょうか。
※ ビリー・プレストン…アメリカのミュージシャン / キーボード奏者。ザ・ビートルズ後期の楽曲にも参加し、「5人目のビートルズ」との呼び名もある。1946 - 2006年没。
神谷 : 2023AWのKAMIYAの展示会が終わって、バイヤーさんたちからもすごく良い反応をいただいていて、すごく気持ちも満たされていたのですが、その帰りになぜかビリー・プレストンの「Nothing From Nothing」を聴いたんです。すごくハッピーで、高揚感と達成感と祝福されているような気持ちになったので、歌詞を調べてみたら、「何もないところからは何も生まれない」と。確かにそうだなと思ったんです。自分もやりたいことを押し殺していたら、KAMIYAの充実感も得られなかった。一方で周りの同世代や下の世代の人たちを見回してみると、夢や希望が持てないでいる人たちも多い。“何もしなければ何も生まれない”をショーでも伝えられたら、と思ったんですね。トラックにサウンドシステムを組んでというアイデアは、三原さんとも相談をして思い切り面白いことをやろうという流れでした。KAMIYAになってから以降は、逆に三原さんと会話する機会が増えましたね。
― 音楽はどのようにクリエイションに影響を与えていると感じますか。
神谷 : 音楽って本当に人を幸せにするものだし、巻き込むパワーも凄いじゃないですか。僕が作る服もそうありたいと思っているし、コレクションを作るのは、ミュージシャンがアルバムを創るという行為にも近いような気がするんです。
― 影響を受けているアーティストはいますか?
神谷 : 音楽は何でも好きですけど、影響を受けているのはJ.Dilla(ジェイ・ディラ)ですね。このお店(※ KAMIYA直営店のThe Pharcyde[ザ・ファーサイド])も彼が手掛けるヒップホップクルーからインスパイアされているのですが、あの人が2000年代にジャズや様々な音楽をサンプリングして作ったすごくグルーヴのある音が好きだし、洋服に置き換えるとそこに自分も共通点を感じるんです。
― それはどういう部分ですか?
神谷 : 音楽でもサンプリングの元ネタに辿り着いたりすることが多いのですが、例えば洋服でも、古着やヴィンテージを見直して、今の空気感に編集し直す行為とも似ていると思うんです。ミュージシャンの方々もKAMIYAの服を着てくれることが多いのですが、そういう感覚がどこか伝わっているのかもしれません。
KAMIYAは酒場から生まれた服?
― Maison MIHARA YASUHIROが“遊び心”や“ユニークさ”を出しているのに対して、KAMIYAの服にはどこか不良性みたいな部分を感じます。それはどこから来ていると思いますか?
神谷 : それはよく言われますね(笑)。
― 先ほど「裏なんば」の酒場で働いていた話も聞いたせいかもしれないのですが、KAMIYAの服にはそういう場所にいる人たちの雰囲気がするんです。東京で言えば新宿ゴールデン街のような。そういう場所にいる人たちって、トレンドとは無縁な自由な服装をしているけど、妙にカッコよかったりしますよね。
神谷 : 「流行りって何?」みたいな人たちですよね。日に焼けたダサい帽子が妙にカッコよかったり。分かります。そんなこと言われたのは初めてで、自覚もなかったですけど、本当にそうかもしれない。確かに濃い時間だったし、20代から70代くらいまでのクセのある人たちと過ごしたことで、コミュ力も培った場所ですし。いや……、確かに自分が作るものに出てますね(笑)。
渋谷・百軒店がランウェイの舞台に
― 今回(2024AW)のショー会場が渋谷の「百軒店」というのも、どこかその話にも共通しますね。
神谷 : 今回のショーは、百軒店で出来ることになって完成する気がしています。あのエリアも渋谷の開発地区に入っているのですが、それこそ70年代くらいから変わっていないんです。変わっていない理由は、あそこで商売をしている方たちが、変わらないことを望んで努力をしているからなんですね。そこに共感を覚えたのと、今回のショーもそういう部分をテーマにしているので。ショーをやらせてもらうことが決まってからは、毎週百軒店に呑みに行っています。
― 毎週ですか(笑)。
神谷 : 普通だったら商店街の会長さんにご挨拶して、それで申請すればいいのかもしれないのですが、商店街の方たちが「神谷くんを応援する」という気持ちになってくれるのと、ただ場所を貸すだけでは全然違うと思うんです。あそこも「裏なんば」感はあるので、僕が馴染んでいるのもありますが(笑)、新しい出会いもあったし、このショーが終わってからも通い続けると思います。特に場所に関しては三原さんが喜んでくれましたね。「オレの方が昔から遊んでいたし、オレが代わりにやりたい」と。「今回は譲れません」と言わせてもらいましたけど(笑)。
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10 questions to KOJI KAMIYA
- クルマやバイクは何に乗っていますか?
免許も持っていないので、乗っていないんです。
免許取ってからとことん自分で乗りたいクルマを調べます。
2. スニーカーと革靴、どちらの方が多く持っていますか?
ブーツもあれば、スニーカーもあれば、本当に半々ですね。
たぶんトータルで40足くらいだと思います。
3. 今までで最も高価な服の買い物は何で、いくらくらいですか?
つい最近、LAのcout de la liberteというブランドのワイヤー入りのフレアーパンツを買いました。
20万円台後半です。高い服はあまり買ってこなかったのですが。
4. 一生聴き続けそうな音楽やアーティストは?
いっぱいいますけど、絞るとするなら、ジミ・ヘンドリクスとJ.ディラ。
飽きたなと思っていても、また聴くといいなと思うのはその2名ですね。
5. 最も影響を受けた本や映画は?
特にない……です。
6. 自分が一番得意だと思っていることは?
ヒト付き合いですね。
洋服だと加工です。好きすぎて加工工場で働きたいくらい。
7 .逆に自分が苦手だと感じていることは?
漠然とした目標を立てて向かっていくのは得意ですけど、緻密な計画を立てるのが苦手です。
8. もしデザイナーをやっていなかったら、何をしていた?
たぶん呑み屋ですね。
立ち飲み屋は本当にやってみたいんですよ。
酒は作れるし、軽いおばんざいは作れるので(笑)、KAMIYAでやってみようかな。
9. 自分が絶対にやらないことは?
サーフィンが好きな三原さんとは逆ですけど、
深い海が苦手で、絶対飛び込めないです(笑)。
10. ファッションとは?
“人”です。
人付き合いも服から始まるし、ファッションで自分の人生も変わったので。
Profile
神谷 康司 | Koji Kamiya
1995年生まれ、愛知県出身。高校卒業後、大阪でアパレルキャリアをスタート。ヴィンテージ/アーカイブと現行品をミックスさせるファッションカルチャーに強い影響を受け、ヴィンテージショップで販売キャリアを重ねる。その後SOSU社のストリートレーベルMYneに参画し、三原康裕に師事。2018年にMYneディレクターに就任し、モード感のあるストリートウェアに自身のルーツを投影した物作りを展開。 2023年ブランド名を変更し、KAMIYA(カミヤ)としての活動をスタートさせる。
http://kamiya-online.jp
https://www.instagram.com/kamiya___official/
https://www.instagram.com/kamiya_my/
[編集後記]
神谷さんがMYneのブランド名でデザインをしていた時と、KAMIYAになって以降のクリエイションは、個人的にかなり印象が変わった。いわゆる固定観念的な“ストリート”を抜け出して、神谷さんが働いていたという、立ち呑み酒場にいる人々を想起させるような自由さを獲得したような気がしたのだ。本人は意識していなかったというが、それが渋谷・百軒店という今回のショーの会場選びにも如実に現れているのが面白い。立ち呑み酒場も日本らしい“ストリート”であり、“カルチャー”だ。3月11日(月)の夜は、そんな場所で存分に暴れるKAMIYAの姿を見に行きたい。(武井)